神戸まつり

 茶の間でプロ野球実況を観ていると隣室から顔を出した家内、
「あんた、ことしは神戸まつりに出かけへんの?」と声をかけられた。
 そういえばきょうは神戸まつり恒例のパレードが三宮で行われている。去年はあいにくの天気で行かず終いだったがきょうは絶好のお出かけ日和。はっと気づいたが後の祭り。
「あんまり興味なさそうやねぇ。出かける元気がなくなったんやねぇ」とつぶやくのを耳に、
「パレードはもう半分くらい済んどるやろ?」と聞き返すと、別室でテレビみていた彼女
「サンテレビでサンバチームのええ場面が映ってたんよ」と上から目線。
 観戦中の試合打線低調でさっぱりの凡戦、試合がいっこうに盛り上がらない。
「それでは!」と業もやし神戸まつりに画面を切り替え。N8dscf1210
 今しも目に入るは「南京玉すだれ」チームの演技。総勢百人はいようか、一見して老齢のご婦人ばかり揃いも揃って厚化粧、ど派手な冠衣装で玉すだれ両手に歩きながら芸を披露中。画面一杯映ってるがたいそう楽しそう。観ているこちらも陽気になる。
「お年寄りはこうなくっちゃぁ」とばかり。元気なご婦人連に見とれる。
N8dscf1269_3 次いで画面に映るはこれまた懐かしき沖縄えいさー踊りのご一行。 大太鼓、小太鼓の音頭よろしく右に左に足ふみながら「えいやーえいやー」のかけ声、合間「ひゅぃーひゅぃー」と風切る口笛、連のなかに少年もいて小太鼓を持ち同じ仕草で踊るも微笑ましい。
 かようにしてこのパレード、朝から午後遅くまで延々続き、ときには間延びして冗漫の嫌いあるが、合間に女体艶めかしく踊り狂うサンバチームが出現し目も覚める寸法。息抜きでき楽しいもの。
 残念ながらことしは茶の間テレビでお茶を濁した。(2011年5月記)

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夕日ヶ浦温泉

 一昨年の5月、丹後半島の西端、京丹後市浜詰の夕日ヶ浦温泉に旅した。舞鶴若狭自動車道綾部JCTから京都縦貫自動車道に進み終点宮津天橋立ICまで走行、そこからはバイパス(宮津野田川道路)を経由し国道312号線、府道17号線、国道178号線の順に行って午後3時過ぎ現地の「ホテル佳松苑」に着いた。
 案内され「はなれ風香」7階の部屋に通されたが、部屋の窓からは日本海が一望され左に山陰海岸がうっすら浮んで見えた。運転疲れもあり早々1階の露天湯に入り疲れを癒し、楽しみの食事待つ。
 ここは地名どおり夕日が美しい浦とか。その日は午後6時58分日没と聞いていたのでその時刻にあわせ、食事途中で箸をおき部屋に返ってベランダに立ち海の彼方水平線に沈む夕日を観賞する。Photo
ホテル案内に「・・・燃えるような赤い夕日・・・」とあったが、それに偽りない美しい日の入り。あきずに眺めた。
 その後再び夕食にとって返したがそこは水庭に面し風流な場所で薄い暖簾越し仕切られた食卓には丹後産の魚介類、但馬牛肉、それに京野菜とならび豪華だった。
 当夜再び内風呂に入ったが湯中背のびすると真っ暗な海面の彼方、点々と漁船の灯火がまたたき、旅情格別、快よい一夜だった。

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道後ぶらぶら

「小台風!この辺雨が降る日はいつもこんな調子です。気をつけて」と運転危ぶむおかみさんに見送られ、足摺の宿を出る。
 懸念された天気は昼前どうやら雨も上がりときどき雲間から陽光が見えるまでに回復。快適に運転つづけ四万十市から宿毛市さらに宇和島市まで国道56号線を北上、宇和島市からは自動車道で松山市にと入る。
 道後公園近くの宿に到着したがチェックインにはまだ早い。ひとまずそこの駐車場に車停め、ぶらぶらと道後温泉に出かけた。
 道後温泉駅前は終点、きっと松山名物のポッポ電車が来るだろうからそれを写そうと、坊ちゃんカラクリ時計台のある放生園広場の古い木製ベンチに坐ってポッポ電車の到来を待つことにした。Dougo002
  時刻がちょうど3時のおやつどき、観光客が三々五々寄ってきては記念撮影するなど賑やかな広場だ。
 時計台前に坊ちゃんとマドンナに扮装した若いガイドが立っていたので、戯れ気分一緒に記念撮影したりして、チョイの間過す。
 だがその後も一向にポッポ電車が到着する気配がない。いつまでもここにいるわけにもゆかず「せっかく来たんだから」と温泉街を一巡。商店街の菓子屋で手土産を買ってひとまず宿に帰ることにする。
 その帰り道、杖をつきゆっくり歩く家内につきそうように土産袋片手、同じペースで歩く姿が傍目にいかにも老老介護のように映るらしく、信号のない交差点、横断歩道前で通り過ぎる車を見ていると待つ間もなく目前で両方向の車が急停車。
「どうぞ!ごゆっくりと!」といわんばかり。運転者の柔らかな視線が目に入った。
 それがなんとなくうれしく、一礼し歩道を渡る。
「松山のお人はやさしいなぁ。松山はええところやなぁ」と思う。(2010.06.18 記)

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千鳥川の桜堤

 中国自動車道沿い県道17号線(西脇三田線)を西に走行中、加東市梶原辺で南側一帯川端沿いにいまを盛り桜並木が望まれた。
 寒気残る二月のこと、きょうのようにこの道を走行中道端に「桜堤公園」の標識が立っていた。そのとき「桜満開の時節ぜひここに!」と思ったのだが、そのことがふいと脳裏に浮んだので、「それじゃー」というわけで県道を横道にそれて、川堤に向かうと広場があって車が十数台とまっている。
 公園の入口らしくそこから堤に上ると古い木標があり墨痕鮮やか「千鳥川桜堤公園」と記してあった。Photo_2
 そこの小亭前をぬけて千鳥川の堤に出る。みれば川幅はそこそこだが両岸に桜が間合いよく植えられている。そして花を眺め三々五々そぞろ歩く人々。堤の草むらに青シートしき男女の老人連れが車座で花見の宴真最中。楽しみさまざまだが総じて千草川に寄る人々は近在の方らしく顔見知りとみえ気さくに世間話に興じていて酒宴も騒ぐでもなく穏やかだった。
 上り口前小亭の傍に黒御影の石碑があったがそれには、
「ここ千鳥川河畔に紅八重桜枝垂桜を百本植樹し町の名所に・・・・植樹指導には京都嵯峨野三代桜守佐野藤右衛門氏が・・・・」云々と刻まれていた。土手や公園の桜並木は大抵「そめいよしの」が間合い密に植えられ延々花の白連なる観多いが、ここ千鳥川の堤は枝垂桜が間合いよく植えられ薄桃色の花が一段と映えしっとりした眺めである。
 堤を去り際、小道の枝垂桜の枝に短冊が五・六葉結ばれ風にひらひらなびいていたが、その一葉を手に押さえ読むと、「よい知らせ待ってましたと咲き誇り 美紗子」の句一筆。そこで、
「よい知らせとは、はて・・?」と暫し思案。(2009年4月記)

  ・・・薄紅の花や匂ひて千鳥川・・・

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惣領の甚六

 恐縮ながら齢八十有余歳まで長生した兄にまつわる話を一席。育った家は三男三女、昭和の昔ならごく普通の家庭。上から女・男・女・男・の順、そこで男の私、そして末が女の順に生まれた家族。
 戦争始まるまでは商売繁盛、恵まれた環境に育った長兄は家督継ぐ身ゆえ大事に育てられたが惣領の甚六で、晩年は家運衰え孤独のうち一生終えた。

 
 その兄にまつわる思い出である。幼い私は父に連れられ香川県の善通寺師団に入隊した兄に面会にいった。兄は体格だけは人並優れ甲種合格で帝国陸軍の一兵卒として徴兵された。
 当時高知県に本籍のある男性はほとんど地元高知の歩兵部隊に入営していたが、頑健な体力を見込まれてかどうか、香川県善通寺の山砲部隊に入営する破目になった。山砲部隊といえば山また山の険しい道を大砲や車輪を肩にかつぎ駆け巡る重労働の軍役である。Souryounojinroku1
  入営して一年ほど経ったころ兄の部隊はいよいよ海外に赴くことになった。噂によれば満州方面だと聞いた父は、「これが最後か」と私を連れて長時間揺られて汽車の旅。善通寺に赴いた。
 
 交通状態が不便きわまる戦時中の長旅、父は「日曜日には面会が許されるだろう」と考え、前日現地に着いて善通寺参りの遍路が泊る宿で一夜を明かした。その翌朝のことである。旅情珍しく二階の窓際に坐って道行く人を眺めていると、いままで見たことのない青い目の白人たちが二列縦隊になって足早に道を通り過ぎてゆく。よくよくみると彼らはくたびれた軍服ながらみんな屈託なさそうな顔つきで背をのばし行進していた。

 日本中戦勝に浮かれていたころのこと、多分当時占領した香港から連行された英国兵の捕虜ではなかったかと思う。

 行列の前後を銃剣付けた小銃を肩に監視する日本兵が半ば駆け足でゆくのがなんともユーモラスだったのがいまも脳裏に残っている。
 
 その日曜日午後、父と一緒に兄が入隊した山砲部隊の営舎に行った。営舎に入って直ぐのところに面会所がある。そこで外出中の兄を待っていると一時間余経ったころ兄の姿が目に入った。

 新兵は入門する際歩哨が立っている位置から当番下士官が坐っている詰所前までを敬礼の姿勢で通過しなければならない。そこには古参軍曹がでんと坐っており、新兵いびりをしていた。
 
「おい、おまえ!ちょっとここに来い!」
 
「おまえ、手にもってるものは何か?」 といった調子で詰所に呼ばれ、散々油をしぼられる光景が次々展開され、それをみて子供心、「軍隊は怖いところやなぁ」と身引き締まる思いがした。
 
 さて兄はどうなることかと息をのんでいると、その順番になりまず衛兵前で敬礼、そして数歩歩いた途端、当番下士官の一喝、
 
「こらっ!本をさげてるおまえ!こっちへ来い」
 
 兄が詰所に呼びつけられて十数分経ち、やっと解放されようやく面会を許された。後日父から聞いた話だが、兄が携えていた本は「聖書」だった。それが理由で、

「そんな書物提げて外出とはけしからん!軍紀上許されんぞ」と散々痛めつけられたという。
 
 そのことでなによりショックを受けたのは入営時「聖書」を持たせた父ではなかったかといまにして思う。

 わが子が徴兵され国のため盡すことをなによりも名誉と信じ、心底からその出征を喜んで見送った父である。その一方「聖書」にある「愛」とか「敵を愛す」といった言葉を信じていた父でもある。

 こうした心情の乖離がとても不思議だが、当時は常軌通ぜぬ戦時中のこと、無理もないが思えば人間喪失の時代だった。

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1000万ドルの夜景

往年よく「100万ドルの夜景」といわれたのは香港と神戸。ところでいまはそれを「1000万ドルの夜景」というらしい。
Kobe001_2_2 私はその「1000万ドル」というのは抽象的、比喩的表現と思っていたのだが、いつかの神戸新聞朝刊でかなり具体的な数値だというのが分かった。
 六甲山頂から眺める神戸一帯の夜景について、六甲ケーブルを運行する会社が六甲山の眼下に広がる一般家庭の電気料金を集計、1ドル85円で換算すると1031万8975ドルだというのだ。
 いまから5年前その会社の社長が「本当に1000万ドルの明かりか」という疑問をいだき、それがきっかけで六甲山展望台から見える地域を地図に落とし世帯数を集計、関電のデータから世帯当たりの平均日額電気料金を割り出し掛け合わせたところ当時1ドル110円換算で710万1364ドル、数値上1000万ドルではなかった。
 ところがそれから5年後のデータ更新で1031万8975ドルとなり、名実ともに1000万ドルの夜景になったというのである。
 当時の記事によれば「今後円安が進行し仮に87円台後半になれば1000万ドルを割り込む計算だから、輝きが大きいうちに夜景を見にきて!」と呼びかけている。
 それは2010年9月のこと、現在1ドル81円前後なので、まだまだ「1000万ドルの夜景」である。

 

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春四国、薬王寺に

 室戸から徳島へと国道55号線を一路北上。春霞ならぬ黄砂現象ようやく治まり、先日とはうってかわり太平洋は遠く海の果てまではっきり見渡され、海岸線の風景がとても美しい。
 春ともなると街道筋は歩き遍路が数々通り過ぎてゆく。阿波最後の札所日和佐薬王寺から次なる土佐初の札所室戸岬の最御崎寺までの道程は数十キロ。沿道行くは一見団塊世代の夫婦連れや足取り軽ろやかにひとり行く元気な若者、それにうつむき加減思案あり気に静かに歩む女性連れ、更には両手に杖持ち交互に痛む足運ぶ老人などさまざまな遍路が次々と通り過ぎる。
 いまは美波町というが昔懐かしき日和佐に着く。街道脇に大きい規模の道の駅がある。運転疲れを癒すべく車を停めそこで休憩。駐車場から筋向かいの山腹を見上げると朱の瑜祇塔が色あざやかに眺められた。
Photo_2 なんどか訪れたことある薬王寺は四国遍路第二十三番札所厄除寺で知られるが、この寺を阪神淡路大地震の直後に初めて訪れた。本堂へは勾配急な石段で女厄坂33段、男厄坂42段、それに還暦の厄坂61段と延々続き上るのもひと難儀な参道。 当時還暦だった家内は地震に遭ったことも重なり、縁起かつぎに厄除参り。長い石段の一段ごとに持参した一円玉をひとつひとつ置きながら上ったことがある。
 それから数年後に頂いた厄除札を返納しようと夫婦で出かけたが、彼女は足痛で段々坂を上るのはとても無理だった。そこで彼女に代わり本堂に赴き境内の梅の枝に札を結んだことも思い出す。
 ここは千羽温泉だが、道の駅建物内にその温泉を利用し足湯の施設がある。其処で旅の疲れ癒し足を労わった。

 ・・・道遠し笠俯けて遍路行く・・・ 

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亡父の思い出

  東大教授竹内整一著『日本人はなぜ「さようなら」と別れるのか』(ちくま新書)のなかに、

「・・・十数年前に父に胃癌で死なれたのですが、おもに長男の私の判断で、父に告知しないという方針もあって、最後まで「死なないもの」のように対応していました。告知しなかったということ自体は、ありうべき対応として今でもそれは後悔していないのですが、そのことによって、結局は、最後の別れを、「さようなら」というあいさつを回避してしまったという思いが強く残っています。
 死の一週間ほど前に、仲のよかった親戚が来たときには、おたがいに目を真っ赤にして泣き合って別れていたのに、「死なないもの」として扱う私には、父との間には、ついにそうした時は訪れることはありませんでした

 父は自分が癌であり、まもなく死ぬのだという思いがあったことは十分うかがうことができたし、実際まわりの人にもそうも言っていた(と、あとで聞いた)のですが、同時に、最後の最後まで、ひょっとしたら、そうでないかのかもしれない、という一縷の望みを、私らの言う「癌なんかじゃない。死なないよ」という言葉につないでいたようにも思います。ですから、申し上げたように、告知しなかったということ自体は、それはそれでひとつの対応としてありえたのだと今でも思っています。
 しかし、そのことによって、結果的には、「無自覚」とまではいえないまでも、父との別れ、「さよなら」の場面を回避しようとしていたのではないかともいえばいえます。何度思い起こしても思い起こすたびに、その一点において、あるもやもやとした悔恨のようなものが、私にはたしかに残されています。
 同じような思いは、あるいは父の側にもそれはあったかもしれないとも思っています。何かを置き忘れたままで、なにかこのままでは死にきれない思いをもったままで逝かざるをえなかったのかもしれない、とも。・・・・・」

 の文章があるのが心に残った。 というのは四十数年前、それに似た体験があったからである。

 家族でいえば私は三男だが、看病している長姉の近くに住んでいたことから末期癌の父親とは兄弟中では最も多く話を交わす仲だった。その頃癌といえば不治の病、告知するなど「もってのほか」だったが、父は子たちの態度からどうも知っていたように思う。
 死ぬ数日前の夜、仕事終えかけつけた私とふたりきりのとき、枕元で小声で、
「こうして畳の上で死ねるのは幸せや」とつぶやき、
「わしが死んだら墓はつくらんでもえいきに。 お母さんのお墓の脇にちょっと土を掘って骨を埋めてや」とはっきり言った。

 私は即座に、
「うん!わかった!お父さんのお墓はお母さんのお墓の横に、お父さんがつくったお墓と同んなじようにちゃんとお墓をつくるき!ぼくがぜったいするき!」と土佐弁で応えた。
 その瞬間、いっぺんに親子ほんねの別れ 「さようなら」 ができた。

Img186

 いまにして思えば、そのとき悲しさを通り越し 「ほっと」とした思いがあった。

 竹内教授の文章を読みながらその理由が判った気がした。

そして、父との別れが教授のような 「このままでは死にきれない思いをもったままで逝かざるをえない」結末ではなかったのを、本当に幸せに思う。

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新宮のとろろめし

 某日、家内が新聞の切抜きを差出し、
「この店のとろろめし定食を食べてみたい」と言い出した。一瞥すると{おでかけ情報―食べ歩き}という切り抜きである。なんだかんだ言っても食欲に関心あるは長生きの秘訣。結構なことだとその希望にそうことにした。
 その案内みれば兵庫県たつの市新宮町福栖の「とろろ亭」という店。皮肉なことだが私はとろろが大の苦手、いまもってあまり口にしない。それに反し彼女はとろろが大好物。
「やまいもをとろろにするとねばねばがでんぷんを包み込み、消化吸収が緩やかになって血糖値が上がりにくくなる。糖尿病患者に注目され、また便通にいいばかりか余分な糖質を体外に排出してくれる働きをする」との解説読んで彼女は大乗り気。
 あまり気乗りしないがたまには女房孝行とたつの市新宮町に向かった。神戸から第二神明道路、姫路バイパスを経由、国道2号線、国道179号線を西に、龍野市内を通過し揖保川沿いに北上。この道「出雲街道」を新宮町から栗栖川沿いにさらに北上、「道の駅しんぐう」を通過、しばらく行くと道の左側に大きな看板があった。そこが「とろろ亭」。Photo
 店に入ると11時開店とかでまずは一番乗り。ややあって同年輩の老夫婦が2組相ついで来店した。どうやら同じ記事見てのお越しらしく同様に「とろろめし定食」を注文している。
 しばらく経ってその食事が運ばれてきた。店の一番人気で、4種類のイモを使いとろろの粘りと香りをうまくからませ、熱々のご飯にかけ箸でかきまぜ食べる彼女。とても旨そうに食べご満悦である。
 その傍らでとろろ嫌いの私は、氷片敷き、刻みきゅうりと薄切りかまぼこをのせた「盛り蕎麦」で昼食に代えた。(2008年5月記)

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黄色のシンビジューム

 毎年3月、大阪の娘から母親に大きな包装箱が送られてくる。中味は誕生祝の鉢植でことしは高さ90センチ余り、花満開のシンビジューム、真黄色の花が鈴なり見るからに美しい。Photo_2
「きれいやなー」と感心し眺めていると、横で母親は「年ごと違う色のシンビジュームいってるのに」とつぶやき、「黄色のシンビジュームは前に貰ったことがあるのに、あの子!もう忘れとるわ」とぶつぶつ。
 内心満更でもないくせに花の色柄をあれこれいってと、ついつい嫌味がてら、
「黄色いシンビジュームの花はいままで見たことないよ」とボケてみせると、彼女は真顔で、
「いいえ!4、5年前送ってもらったの」と突っこんできて、「これ!このとおり」と引出しから黄色い花のシンビジュームの写真を取り出し目前に突き出す。

 それはそれ、贈り主はずいぶん気を使ってる。毎年違う色のシンビジュームを探しあちらこちら花屋を回ってるようだがそう簡単に注文どおり見つかるものではない。去年などやむをえず代わりにデンドロビュームの花を送ってきたではないか。
 そんな苦労話を聞けば、せめて「ありがとう」の一言くらい言えないのかと思うが、出るは「いやねぇー」の反語。嬉しさのてれ隠しとは思うが素直でない。
「きれいな花をいつもありがとう!」くらい言ってやればいいのにと思う。それとも母娘の間では「以心伝心」言葉交わさずとも暗黙裡、意思の疎通ありというのか。(2010年3月25日 記)

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